澄姫です。
僕は運動は全くしない性質なので体力は全然なく走ると直ぐに息が上がったりするのですが、何故か歩くのは苦にならないみたいです。清姫の聖地巡礼をして清姫のお墓から捻木の杉を目指した時は実質峠越えだったのですが平気で歩いていましたね。
どころか杉からさらに潮見峠を目指して山道を進んだり、昼過ぎにお墓まで戻った後は滝尻王子まで歩いて更に清姫覗橋まで歩いていました。
凄くおなかの空いた記憶がありますが、食事処が全くないのでカップ麺一つになんとかあり付いた程度でしたね。よく倒れなかったなぁ。水分補給さえしておけば案外なんとかなるもんです。
そんな訳で、清姫のお墓に行くときにはご飯用意しましょうね。滝尻王子の方へ行かないと食べ物を売っている場所が無いです。売っていると言っても個人商店と熊野古道の案内所位のものなのでちゃんと食べる事も出来ませんし。
安珍の地元についての話
さて少し前に清姫のお墓、だいぶ前に清姫の地元についてのお話をしました。なので(?)今回は安珍の地元に関してのお話をしましょうか。接続語が何の意味も成していないですね。
色々寄り道をしながら話をしていたので、今までにもどこかで触れたと思いますが安珍の地元は奥州白河、現在の福島県です。更に詳しく調べると白河の萱根という地区が安珍の出身地されていますね。
安珍自身は焼き殺されるまでは無名に近い修験者だったのだろうと思いますが、よく出生地が残っていましたね。創作にしても、何故安珍の出生地を白河にしたのでしょうか、という謎も残り。
道成寺縁起に記述がありますから、室町時代にはそう認識されて居たようですが、何故に安珍の出身地まで限定せねばならなかったのは甚だ疑問です。
安珍の地元に残る安珍のお墓
そんな安珍の地元白河には、安珍を供養するために墓所が設置されています。
清姫の地元と同じですね。聖地巡礼例の如く、鉄道の駅からはやや距離があるので車での移動をお勧めしますが、停める場所も無いしそもそも福島県まで行くのがほとんどの人にとっては遠出ですので、往復一、二時間くらい歩いても良いでしょう。捻木の杉よりは近いですし。
現在安珍が主立って供養されているのは「安珍堂」というお堂になります。ここでは安珍の命日に「安珍念佛踊」という踊りなどで供養する催しが行われているようです。また、安珍もみじという木がありました。和歌山には安珍桜があるので、妙に木になる男ですね安珍。
この安珍堂の周りには道成寺物に関する絵や、安珍出生の地と刻まれた碑石などが結構見え、地元では安珍の事をそれなりにきちんと供養しているように見えます。
年に一回催し事をしているのですし、白河が安珍の地元、という観念が埋れて歴史になってしまっているわけでは無いのでなんとなく安心ですね。
一方、この安珍堂から安珍の墓はちょっと移動したところになります。
分かりにくいのですが、案内板が複数あるので辿り着けるでしょう。最初の案内板がどっちを指し示しているのかが微妙ですが、大通りではなくわき道を指しています。
しばらく行くと幹線通りのガード下を抜け、またしばらく進むと畦道に逸れます。少し行くと見えてきます、が……安珍堂とは変わってほとんど整備されていません。僕が行ったときは折れた看板が放置されたままでした。
肝心の安珍の墓石も劣化が酷く詳細は分かりません。下手したら数十年手入れされていないかもです。
ここの看板では清姫の名前の異字表記である「喜代姫」が「㐂代姫」と記述されていました。この表記は初めて見ましたが、単純に旧字ですね。いわゆる喜寿の語源にもなっているのが㐂という字です。
加えて、安珍の屋敷や安珍嘆きの藤と言うものがあったそうですが、どうもどちらも現存していないようです。残念……。
安珍堂は東北本線の久田野駅から三十分ほど歩いた場所になります。清姫のお墓に比べれば周囲は色々ありました。安珍のお墓まで行ったり、散策を含めるとおおよそ二時間から三時間くらい見ると良いでしょう。
鉄道ダイヤは一時間に一本程度と薄めなのでお気をつけて。多分東京駅から行こうとすると久田野までは三時間くらいだと思います。
これは完全に余談なのですが、安珍のお墓に行くまでの道中にこれもほとんど手入れされていない神社を見かけました。
鳥居は大正時代のものだったので相当古いですが、多分もう使われていないでしょう。折角なのでお参りしてその場を後にしましたが、ちょっと異界チックでわくわくしたのでお勧めです。
皆さまも安珍の地元訪れては如何でしょうか。
今回はここ迄。御読み頂きありがとう御座いました。
ではまた次回も……清姫の話をするとしよう。