清姫の話。【摩訶】道成寺七不思議の話。

わくわくしているきよひー 清姫の話
この記事は約6分で読めます。

澄姫です。

最近某バトルロワイヤルにどっぷりはまってしまいその話ばっかりしている。
今のところ発熱はしていないので清姫さんは怒っていないみたいです。

バトロワ系のFPSゲームは全くやったことがないので下手くそなまま楽しんでいます。何も出来ないままやられることは減ったのでたぶん上手くなっている。

FPSのみならずアクション系の動きがあるゲーム全般に触れたことがあまりなく、精々大乱闘した程度でしょうか。上手い人のプレイ動画を見たりして参考にしようとしていますが、上手すぎて参考になりません。

RPGとか音楽ゲームならやるんですけどね。一人で延々とやるゲームばっかり。
全体的に中の下辺りの実力止まりです。上手くなり方を知りたい。

余談余談。

道成寺には七不思議がある。

このブログでたびたび「清姫伝説七不思議」なる珍妙なものを提唱してすっかり忘れていました。清姫と安珍の命日にズレがあるとかそんなんだったと思います。

僕が言っているのは正式なものでもなく与太話の類です。つまり勝手に言い出しているだけなのですが、既にそのようなものが清姫伝説にない訳ではなかったようで。

四月のころ、世間があれやこれやと大変な騒ぎになり引き籠り生活を余儀なくされたので清姫にまつわる本を買いあさったり買ってあったけど読んでいなかった本を読んだりとしていました。

普段と何が違うのかと言われたら普段以上に清姫の本を読みました。

牧村史陽しようという大阪の郷土史家・方言研究家の人が居ます。その方が書いた『史陽選集』という様々な伝承や芸能、人物を扱った研究本があります。26・27の合巻が道成寺物語となっており、清姫伝説や道成寺物に関するあれこれが書かれていました。

牧村さんに関しては僕もwikiで見た程度なので気になる人は自分で調べてみてね。

その中で【道成寺七不思議】なるものが提唱されていることがわかりました。内容としてはきちんとしていて、道成寺や清姫伝説に関するよくわかっていない事が列挙されていました。

史陽選集によると、道成寺の住職である小野氏が述べていたそうです。この本の出たのが昭和41年(1966年)なので、現在の住職さんではなく数代前のお方でしょう。

では、そんな道成寺七不思議のお話。

道成寺七不思議の話。

その1『道成寺はいつ頃誰のために作られたのか?』

ブログで今までにも話していますが、道成寺は701年、文武天皇の勅願によって建てられた、とされています。しかしながら、文武天皇の時代を書いた歴史書、『続日本記しょくにほんぎ』に記述が見られないそうです。天皇が直々に命令を下して立てたほどのお寺であれば書いてあっても不思議ではないのですが。

一方、道成寺の発掘調査で発見された瓦などを見てみると確かに奈良時代初頭に作られたであろう物だそうです。つまり道成寺自体が作られた時代は合っているのだけれども、その時代の公的な文書に記述がない、ということで真相が不明なのですね。

確かに不思議なお話である。

その2『紀道成は実在したのか?』

道成寺の建立に際し、その中心にいたのが紀道成きのみちなりという人物であるとされています。
その人から名前を取って道成寺。

道成寺の工期中に事故死をしてしまった、というお話もありますがこの紀道成さん。この人も記録のない人です。天皇からの命令を受けてお寺を立てる役目を担うような人ですから、少なくとも朝廷の官僚や地方の役人であっただろう、と推測ができるのですが公文書に記述がない。

道成寺の建立、結構謎だらけ。

因みにですが、『日本霊異記』という平安初期に書かれた日本最古の説話集には、日高の辺りに「紀万呂朝臣(下巻第二十五)」や「紀直吉足(下巻第三十三)という人物が出てきます。

特に紀直吉足さんは地主のようであったらしく横暴なふるまいをし、最後にはあっけなく死んでしまうようですがこの時の物語に名もなきお寺が出てまして、これが道成寺なのではないか、という説もあります。

いずれにせよ道成寺の付近には紀と名乗る豪族・地主の類がいたようなので、紀道成さんもこの系譜の人間ではないかと考えることはできます。

なお、日本霊異記に清姫伝説は全く見られないので、成立したのは日本霊異記以降ですね。

その3『宮古姫と伝説の関係は?』

道成寺建立説話に出てくる宮古姫さん。

史実では藤原不比等の娘であり、文武天皇の奥さんです。宮古姫が天皇にお願いして道成寺を立ててもらった、というのが宮古姫伝説ですが、道成寺の建立があやふやだったり現場を指揮した人がよくわからんちんなので結果として宮古姫が関わっていたのか、というのも謎になってしまう。

なお、異母妹の光明皇后は聖武天皇の奥さんですので妹が義理の娘になります。
こっちもこっちでややこしい。

その4『安珍と清姫は実在したのか? 清姫は娘か未亡人か?』

古い文献だと未亡人で気が付いたら可愛らしい娘になっていた清姫さん。
結局どっちだったんだろうか。

いや、そもそも安珍も清姫も実在したのか。
モデルとなるような人、事件は在ったのか。
清姫伝説最大のミステリーです。

女が蛇になって鐘を燃やす、なんて突拍子もない物語が一から生み出されたとは考えにくいので、何か元にした物語はあるだろう、と僕は考えています。そしてそれは実際に何かがあって語られるようになったのだろう、とも。

いつかはっきりさせられると嬉しい。

その5『安珍の出身地は奥州白河か。鞍馬寺の修行僧だったか?』

安珍は『道成寺縁起』などで奥州白河の出身である、と記述されると同時に、『元亨釈書』では鞍馬寺の僧侶であった、とも書かれます。ついでに羽黒山の修験者ともされますが、結局安珍の出身や所属はどこなのか。

一説には、京都の白川であったのが奥州の白河に混濁された、というものもあります。ある意味出身地はどこでもいいといえばいいのですが、何故奥州白河とされたのか。

ダーツで決めるなんて事はないでしょうから、何か理由や縁があるはず。
きちんと七不思議。

その6『二代目の鐘はなぜ京都に送られたか? 現存するものは本物なのか?』

清姫の怨霊の仕業で捨てられて、秀吉の軍が京都に持ち帰った後妙満寺で供養され現在に至るとされる二代目の鐘

この二代目ですが、実は既に火事で焼失してしまい、今残るものはそれを模して造られたものという話もあります。

安珍の出身地話同様、理由もないのに京都の妙満寺と紀州の道成寺に縁の生じるはずがなく。道成寺の鐘であったものが何らかの理由で巡り巡って妙満寺に行き着いた、という点はおおよそあっていると考えるにしても、その原因が未だに分からず。

道成寺の鐘、運が悪い。

その7『なぜ芸能の世界で道成寺物は大事にされるのか?』

江戸時代では毎回演じられるほどであったという道成寺物。

現在でもその難しさから女形の最高峰ともいわれますが、有名であると同時に定番である、というのは現代でも相違ないでしょう。

しかし、芸能の演目は道成寺物以外にも山ほどあります。その中で道成寺物が一つ重要な位置付けになったのは何故でしょうか。

たまたま大当たりしたから、と言ってしまえばそれまでですが、何故大当たりしたのか。一時のブームでは終わらず、現代でも変わらぬ人気を誇れているのか。これを考えようとすると結構大変である。

さてはて、以上道成寺の七不思議。

調べていけば分かる、というものではないですね。最後の道成寺物の人気に関しては当時の社会やら芸能の環境やらを事細かく分析していけば不可能ではなさそうですが、とてつもない労力が容易に想像できます。

因みにですが、道成寺へ行くと境内に七不思議として案内板があっちこっちに立てられています。今回述べたものとは別の内容なので、ぜひ現地に足を運んで見てみてくださいな。

数百年、千年も昔、時の彼方に埋もれてしまった安珍、清姫、道成寺にまつわる七不思議。
一つくらいはいつか解明してみたいものだなぁと思う澄姫さんなのでした。

今回は此処迄。お読み頂きありがとう御座いました。
ではまた次回も……清姫の話をするとしよう。