清姫の話。【変遷】今昔物語集と法華験記の違い

お願いするきよひー 清姫の話
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澄姫です。

ご無沙汰しておりました。
というのもここ最近澄姫が清姫の論文を書いていたりワクチンを打ったら副反応で倒れるなど慌しかったために云々。ようやっと落ち着いたので再開する次第でございます。

論文を書いている間に自分の中で清姫伝説への解釈が結構まとまったので、少しずつお話しできたらな、と思います。字数的には以前書いた論文よりも少ないのですが、内容はマシになったかな、という感じ。清姫伝説の分析は結構上手くいったっぽい。一方で立ち入れなかった領域もあるので、今後ともよろしくお願い致します。

さて、久しぶりに清姫の話しよか。

今昔物語集と法華験記の清姫伝説の話。

間が空きましたが前回、清姫伝説の作品を比べていって清姫の火力が変わっているよね、という話をしました。その最後で次回も比較に関する話をすると言っていたので、その話をしようと思います。

清姫伝説の原典でも古い『今昔物語集』「紀伊國道成寺の僧法花を写して蛇を救う語第三」『法華験記』「紀伊國牟婁郡悪女」の二作ですが、この二つは結構似ているんですね。
いちいち作品を出すのも面倒なので、『法華験記』を法華版、『今昔物語集』を今昔版と呼びましょうか。

澄姫
澄姫

わぁ論文っぽい。

もっと正確に言えば似ている、なんて程度のものではなく単語レベルでの一致が多く見られるなど影響関係がはっきりしています。法華版の方が先なので、法華版→今昔版の影響となりますね。『法華験記』が漢文で、『今昔物語集』が和文なので書かれている言語の違いはあるのですが、一旦はどっちが先か、という事を覚えてもらえれば良いかなと。

言語の差や後に出来た、というのもあって今昔版の方が字数も多く、加筆部分も見られます。今昔版は単純に漢文だった法華版を和訳しただけではなく、つけ加えられた表現も見られる、ということですね。具体的に見ていきましょうか。

今昔版 清姫伝説の加筆部分

宿タル若キ僧ノ美麗ナルヲ見テ、深ク愛欲ノ心ヲ発シテ、

而ルニ、夜ニ入テ、僧共既ニ寝ヌル時ニ、

僧ヲ驚カス。僧驚キ覚テ、恐レ迷フ。

我レ夫無クシテ、寡也。君哀ト可思キ也」ト。

然レバ、速ニ君此ノ心ヲ可止

女約束ヲ憑テ、本ノ所ニ返ス。

『今昔物語集』(日本古典文学全集)

上から順に

「泊まった僧侶(安珍)がイケメンなので惚れた」
「夜、安珍たちが寝た時に」
「安珍を驚かせた。安珍は驚いて起きて、困惑した」
「私には夫が居らず、寡(独身の女性を指す)です。貴方は哀れと思って下さるべきです」
「なので、その思いは直ちに諦めてくれませんか」
「清姫は約束を頼んで、自室へ戻っていった」

といった感じの事を言っています。すごく雑な訳ではあるのですが。

今挙げたものはほんの一部です。清姫伝説に触れたことのある人なら物語の流れを何となくご存じかと思いますが、この時点では安珍が逃げてすらいません。この辺の表現は法華版には無く、今昔版にのみ見られるんですね。

物語の序盤から相当な加筆が加えられているとお分かりいただけるでしょうか。

ちなみに今昔版の結部には長々と付け加えられている部分があります。これは『今昔物語集』が「今ハ昔」を冒頭、「トナム語り伝ヘタルトヤ」を締め括りで統一している影響もあるのでしょうが、その割には結構長いです。

澄姫
澄姫

気になる人は読んでみてね。

全体を通して、今昔版は法華版の内容や表現を補完している、といえるでしょう。より物語的になっている、ともいえるかな。

さて、法華版と今昔版では同じ個所でありながら表現が異なっている箇所もあります。これを今昔版による補完、としてよいかは別としてこちらも挙げておきましょう。

如何にしてかこの悪事あらむや(法華版)
忽ニ此ニシテ願ヲ破ラム、互恐レ可有シ。(今昔版)

僅にこのことを遁れて(法華版)
夜暛ヌレバ、僧其ノ家ヲ立テ、(今昔版)

僧来らずして(法華版)
僧還向ノ次ニ、彼ノ女フ恐レテ、不寄シテ、思他道ヨリ 逃テ(今昔版)

『法華験記』(日本思想体系)及び『今昔物語集』(日本古典文学全集)

これも全てではありませんが、今昔版の方が述べたい事を詳しくしているなという感じはありますね。三つ目の引用なんかはめちゃくちゃ詳しく書いています。ここは互換表現というよりも加筆としちゃっても良かったかもしんない。

ただ言わんとすることは「安珍が逃げた」の一点なので、同一の部分を異なる表現をしたともできますね。

この辺は解釈の問題。余談余談。

法華版 清姫伝説のみの表現

じゃあ今昔版の清姫伝説は、法華版の清姫伝説を単純に加筆したものに過ぎないのか?といわれるとどうもそうではないらしい。

この辺ちょっとややこしい話をします。

法華版を明確になぞっている今昔版ですが、今昔版の作者(若しくは編集者)の存在についてです。
簡単に今昔版の清姫伝説の文章を書いた人、と捉えてください。

この作者さんは法華版をけっこう忠実になぞり、適宜表現の補完や修正をしている、というのは今日のお話で分かると思います。

さて今昔版の作者さんですが、

どのくらい清姫伝説に介入したでしょうか。
わかり易くいえば法華版の清姫伝説と今昔版の清姫伝説はどのくらい違うのか。
そしてその違いは今昔版作者さんがどのくらい手を加えたのか。

という話に繋がるのです。改めて書くとややこしいですねこのあたり。

ここで言いたいのは「今昔版って足しただけなの? 削った場所ってないの?」ってことです。付け加えるだけならともかく、文章の一部を消しちゃうのは物語への介入としては強めという事、なんとなく伝わるでしょうか。

実はあるんですね。しかも削られた部分が特徴的なのです。

薫修年浅くして、いまだ勝利に

決定業の牽くところ、この悪縁に遇へり。

就中にかの悪しき女の抜苦のために、当にこの善を修すべしといへり。

生死の苦びを観じたり

施僧の営を設け

一心に三宝及び

『法華験記』(日本思想体系)

勝利? 業? 就中? 一心? 三宝?

よく分かんない単語が並びましたね。この部分ですが、件の鐘で安珍焼死事件が起こった後、安珍と清姫は蛇の夫婦となっていました。その状況から救ってもらうために道成寺のお坊さんに法華経による供養を行ってもらうのですがその場面になりますね。

つまり凄い仏教の話。

このあたりでは今昔版による加筆の量がガクッと減って、反対に法華版にはあった表現や単語を削っているんです。即ち、安珍と清姫が供養される、という仏教のお話をする場面において今昔版では専門用語を削った、という事になります。

『法華験記』が仏教説話集『今昔物語集』が説話集であることを踏まえると、読み手を意識したような編集とも取れますね。法華版は専門誌掲載だったけど、今昔版は雑誌掲載なのでわかり易いように文章増やして専門用語削りました、って感じ。

以前は僕も今昔版を法華版の加筆版、という意識で見ていましたが単なる加筆に留まるのではなく、一定の指向性を持っていたんだな、と。

結構ちゃんとした話をしましたね。しばらくは澄姫が論文で書いて考察したことを記事にしていこうかな、と。あとは論文書いた時の体験談とかでもいいかな。その辺は適時頑張ります。今後ともよろしくお願いいたします

今回はここ迄。お読み頂きありがとう御座いました。
ではまた次回も……清姫の話をするとしよう。