澄姫です。
マスク、冬場は暖かいのですが夏場は暑さを加速させて地獄の限りでしたね。
予防のあまり暑さで倒れるも覚悟したほどであった。
暑さといえば僕は和歌山に何度も行っていますが、日程の都合上夏場が多いです。
場所によっては日帰りなど無理に等しく、二泊はしないと十分に満喫出来ないのが清姫の聖地。関西の辺りにお住まいの方ならば道成寺なら日帰りが十分にできますが、清姫の地元になると日帰りは難しいかもしれません。
鉄道・バス・徒歩の三本柱で旅をする澄姫さんは最終的に歩きます。車で案内されている道のりを歩きます。結果一時間二時間、往復五時間などを歩く羽目になる。地図が読めても読めない存在が澄姫さん。
二回目に和歌山へ行ったとき、自動販売機を見かけるたびにペットボトルの飲み物を買っては飲んでいましたが、全くお手洗いに行きませんでした。全部汗になったようです。それほどやばい状態だったようである。
体内の塩分濃度が低下すると危険なので、スポーツドリンクか麦茶を飲むようにしましょうね。
道成寺二代目の鐘の話、の続き。
以前、道成寺の鐘についてのお話をしたと思います。
清姫伝説一の被害者。もとい被害鐘。安珍を匿ったというか、匿わされたというか。なのに鐘に恨みは数々御座るとやたらめったら身に覚えのない罪で今もなお追及を受ける羽目に。計画犯よりも実行犯の方が罪が重くなると聞きますが、鐘にも適用されるようですね。
前回お話した時に比べると、一月に二代目の鐘が安置されている京都の妙満寺へいったりその時書き留めた文字の一部が不明で色々手持ちの資料を漁る羽目になるなどありましてまた何か話せるのではないかとなった次第。
さて二代目の鐘。
1359年に作られたはいいものの周囲では災厄が巻き起こり清姫の恨みがまことしやかにささやかれて結局は捨てられてしまうことに。初代に負けず劣らず悲惨な目に合っています。その後秀吉の紀州攻めの折に京都へ持ち帰られたと言いますが、となると二百年くらいほったらかしだったんですね。
錆とか凄そう。
二代目の鐘のひび
日々ではありません。ひびです。錆が過ごそうとか言った後にひびの話である。
京都妙満寺へ行くと、拝観料を納めれば宝物殿に安置されている二代目の鐘を見ることができます。
鐘以外にも本殿やら庭園やらを見ることができるので大変お得。僕が行った頃は雑貨やファッションを取り扱うオンラインショップのフェリシモがコラボをしていたのでそういったアイテムもお土産に置いてありました。
初代がどれほどの大きさだったかは知れませんが、二代目とおんなじ大きさだったとすると確かに大人が一人何とか入れるような大きさ。人を隠すにはもってこいかもしれない。
さて、全体をじっくりと見た後に先のお土産を見ていると『京都怪談巡礼』という本がありました。妙満寺においてある以上、記述のない訳がない。ためらわずに購入し読んでみると興味深い記述が。
なんと、鐘のてっぺん部分には三十センチほどのひび割れがあるそうな。
じっくり見たとは言いつつ、鐘に刻まれている銘文を書きとる方に意識を持っていかれていて、鉄片付近にあるひび割れに気が付いていない澄姫さんなのでした。
このひび割れですが、慶安年間(1648~1652)の時に誤って落としてしまってできたひび割れだとか。鐘にひびが入るとはどのような落とし方をしたのでしょうか。
この点から、少なくとも1650年頃には妙満寺に安置されていたことが事実であるのだろうと言えますね。秀吉の軍に回収されたのであれば十六世紀後半の話になりますからその辺りの話も信憑性を帯びてくる。
妙満寺はこのひび割れを後々出開帳(お寺の宝物などを町に持っていき、人々に拝ませる催し)にて謳い文句の一つとしていたそうな。
お寺もお寺でたくましいものである。
二代目の鐘の銘文
銘文とは金属や石に記された文章のこと。史跡などで碑石があれば書かれている文字は銘文になりますね。
鐘にも銘文が刻まれています。近所のお寺にでも行って釣鐘を見てみると文章が刻まれていることでしょう。銘文とはそれです。
二代目の鐘にも銘文が刻まれている。妙満寺に行って鐘を見れば銘文が見られます。今みたいにフォントで打ち込んだものを刻むわけでなし、手書きもとい手彫りですのでところどころ文字が読みにくかったりするのです。
加えて仏教的に有難さを説くような文章も入っていたりするので、今回は一部を抜粋して特に面白そうな部分の話をします。
紀伊州日高郡矢田荘
道成寺考より
文武天皇勅願道成寺冶鑄鐘
(中略)
大工山田道願 小工大夫守長
正平十四年己亥三月十一日
正平十四年は西暦に直すと1359年。道成寺の二代目の鐘が鋳造されたとされる年と一致しますね。
己亥は干支です。干支は十干と十二支を組み合わせたもの。有名なのだと甲子園ですね。甲子の年に出来たから甲子園。
あとは丙午の女は良くないと言われ女の子の出生率が下がるそうです。当然迷信ですが、今言ったら問題になりそうなものですね。こわやこわや。
紀伊州日高郡矢田荘の部分は道成寺の所在地ですね。1359年当時に道成寺のあった場所がどのように呼ばれていたのかがわかる。
更に続く文武天皇以下の文章は、この頃からすでに道成寺は文武天皇勅願時であるということ、延いては宮古姫伝説も語られていたのであろうと推測が立ちます。道成寺縁起が生まれるよりも半世紀ほど前に当たりますので、銘文も貴重な資料。
さて、この銘文にはこの鐘の作り手の名前も刻まれています。
あからさまに大工の名前がある。山田道願さんが作ったのであろう。
気になるのはその後の人物。小工大夫守長とあります。
調べてみると小工というのは奈良平安時代に建物の修理などを行った技術者のことで、大工の下に居たそうな。大工を棟梁とすればその下っ端ですね。いつ頃まで居たのかはよく分かりませんが、鎌倉室町時代にも職業として残っていたのかも。
確かに大工がいるなら小工がいてもおかしくなかった。
因みに、鳥山石燕という絵描きの書いた『道成寺鐘』という絵では同じく銘文が引用されていますが、最後の文面だけ違って正平十四年ではなく延暦十四年(795)となっています。初代が実はそのころに出来たのだとか妄想は出来ますが具体的なことは分からないのが現状。
二代目の鐘ができたのが1359年。道成寺ができたのが八世紀初頭、今が2020年。道成寺の歴史の中ではほとんど中間にあたります。
650年も昔の鐘を見に一度京都へ足を運んで見てはいかがでしょうか。京都まで行っちゃえば和歌山なんてすぐ近くですしついでに道成寺も見に行ってはいかがでしょうか。
四時間くらい電車に乗っていれば着きます。すぐ近く。
今回はここ迄。お読み頂きありがとう御座いました。
もう年の瀬ですね。今年最後の更新になると思います。では皆様、よいお年を。
ではまた次回も……清姫の話をするとしよう。