澄姫です。
清姫っていいですよね。文字も良い。
日本に姫数多かれど、清の名を与えられしは清姫のみ。
このフレーズ、ちょっとお気に入りです。自語自画自賛。
変化する清姫の話
清姫という名前の初出は、諸説ありますが一七四二年の『道成寺現在蛇鱗』がそうであるとされています。
さて、清姫という名前の影響は相当に強かったのでしょう。
以前「【其は悪】寡婦清姫」という記事でもお話しましたが、文献に登場したばかりの清姫は悪女として登場し、清らかさは疎か娘のようなイメージからも離れた存在でした。
しかし今や、清姫と言えばこの寡婦とまごう事無く同一の存在を指しながらも、字の与える印象のような純粋さと、純粋さが故の行き過ぎた愛情、悲劇のヒロインとして扱われることが多いです。
若しくは、日本屈指のヤンデレとか。好きになって逃げられたのが許せなくて焼き殺しちゃいました、は相応に精神不安定な印象を与えます。
少女清姫の話
今回はそんな清らかな姫たる「少女清姫」さんについての話をしましょう。
現在語られる清姫さんのイメージが一般的となったのは、恐らく江戸時代であると考えられます。
先に上げたように、名前の登場による影響は大きかったのでしょう。
そしてまた、僕はまだきちんと読み込めていませんが『道成寺現在蛇鱗』の筋も、清姫の一途さが前面に出された作品なのでそれらが合わさり、ともあれ「清姫=一途で純粋な女の子」のイメージに固まったのは間違いないでしょう。
更に同時期急激に数を増やした歌舞伎『道成寺物』特に『京鹿子娘道成寺』を始めとした『娘道成寺』系列の影響もあったと思われます。白拍子花子、もとい清姫の怨霊は最後こそ鐘に昇ってその恨みを果たさんとしますが、その前に舞う姿は少女の愛くるしさ、可愛らしさそのものです。
CHECK【鐘への恨みは】『道成寺物』について
CHECK【道成寺物集大成】『京鹿子娘道成寺』について
何せ歌舞伎というのは当時の大衆娯楽でしたから、相当に影響がありました。今で言うドラマやゲームのようなもの。「そう描かれたのだからそうなのだろう」と、一気に清姫さんは可愛らしい少女へと変貌を遂げます。
一方で先の寡婦清姫、悪女清姫さんが全く持って居なくなってしまったのかと言えばそうでもなく、宝暦二年(1753年)の『古今弁惑実物語』には清姫伝説と思われる話が載っており、しかも『紀州日高の女山伏を害事(ころすこと)』というあまりにも直球な表題になっています。
ですが、急速に姿を消し、今一般的に想像される少女清姫、若しくはヤンデレーションな清姫ちゃんへと変わっていきます。
一方で、室町時代には既に成立していたとされる盆踊りの一種、『日高踊』でも少女清姫の存在は確認できます。ですので、芸能分野で勝手に生み出された存在であるとは一概に言えず、寧ろ芸能分野で漸く表舞台に登場したとも言えます。
CHECK【伝う乞い】『日高踊』について
因みに、恐らくですが『道成寺縁起』よりも『日高踊』の方が古いため、少女清姫ちゃんも中々に歴史のある存在だったり。
即ち、口承伝承の清姫ちゃんが少女清姫で書承伝承の清姫ちゃんが寡婦清姫だった、と見る事も出来ますね。
さて、そんな少女清姫ちゃん。芸能分野で登場したのは良いけれど、何故寡婦清姫の存在を消すにまで至ったのか。そこには少々込み入った話が御座いますけれども、これは僕の持論を展開する、即ち「僕にしかできない清姫の話」の一つでありまして。長くなるんだな、これが。
それな
なので次回です、次回。
今回はここ迄。御読み頂きありがとう御座いました。
ではまた次回も……清姫の話をするとしよう。