清姫の話。【空似】清姫じゃないきよひめ達

ショート清姫 清姫
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澄姫です。

世界には自分と同じ顔をした人間が3人は居ると言います。

また、自分と全く同じ風貌のドッペルゲンガーに出会うと死んでしまう、なんてお話もありますがいったいどちらが本物でどちらがドッペル君なのか、なんて考えたら空恐ろしや。

僕は歩きながら色々考える人間なので、基本的に歩いている時は小説のネタだったり記事のネタだったりシナリオのネタだったりを考えています。

ですが、それ以上に誰かと話しながらが一番自分の考えを纏めたり思いつくのに適しています。なので、ドッペル君でもいいので自分がもう一人欲しい。

何せ、自分と同レベルで清姫の話が出来るのは自分ですからね。
ただ、自分を増やしたとてそれ以上の視点やアプローチが無いのは玉に瑕。

やっぱり誰か同レベルに話できる人が欲しい。他の物語専門の人とかだと更に視野が広がりそうなのですが、どこかに居ませんかね。
余談余談。

同姓同名の清姫さん

僕はよく清姫の名前に対して『日本に姫数多かれど、清の名を与えられしは清姫のみ』というフレーズを用いていますが(気に入っているので)、清姫の場合、姫はプリンセスではなく姫が名前の一部になっています。

前に清姫の名前の由来は話しましたが、兎も角清姫は固有名詞になっていますね。

一方、姫と言えばプリンセス。お姫様ですね。つまらば、偉い人のお家に女の子が居れば○○姫、と呼ばれるでしょう。日本にも多くの姫が居ました。

有名どころですと織田信長の正室であったとされる濃姫さん。この名前は後の文献で記述されていた名前に過ぎず、本名はどうもよく分かっていないようです。胡蝶さんと言うとか言わないとか。

さて、この時の姫は俗称+姫、と言った塩梅。

他方、名前そのものに姫が入っている人も居ます。この辺りは人それぞれなので推しの姫を見つけたら本名なのか俗称なのかは調べてみるとよいでしょう。他にも○○院とか○○の方とか○○局とか。院や局は院号・名号と呼ばれる敬称のようなものですね。

ですがいずれにせよ、ある程度身分が高いために『姫』の文字が入れられていると思っていいのでしょうね。あんま僕は詳しくないのですが云々。

澄姫
澄姫

清姫ちゃんは所詮ド田舎のちょっとお家が大きい場所の女の子に過ぎないのであった。でも真砂では姫かもねぇ。

さて話をそろそろ本筋へ移す事としましょう。

日本に姫数多かれど、清の名を与えられしは清姫のみ。
しかして日ノ本の歴史は脈々と受け継ぎ長し。

きよひめ、という名前が付けられたお方が他にも居ます。
今回はそんなきよひめさん達のお話。

紀州徳川家の「清姫」さん

徳川は言わずと知れた江戸幕府将軍の苗字です。徳川家康、徳川秀忠、徳川家光以下十五代続きました。

その徳川家ですが、所謂将軍の系譜に当たる将軍家のほか、三つの大きな分家がありました。宗家に当たる将軍家の後継が途絶えた時の、謂わば保険のような役割でした。

尾張徳川家・水戸徳川家・紀州徳川家。この三つを御三家と言います。
因みに有名な一橋徳川家は田安徳川家・清水徳川家と並んで御三卿と呼ばれ、御三家とは別です。

僕もこの記事書いてて初めて知った。

さて、今回は御三家のうち紀州徳川家にスポットライトが当たります。
紀州、本ブログでは言わずと知れた清姫伝説の舞台に御座い。

紀州徳川家は徳川家康の息子、徳川頼宜よりのぶを祖とし、後には八代将軍徳川吉宗を輩出しました。

その頼宜の息子に松平頼純よりずみというお方が居るのですが、その娘に『清姫』と名付けられた女性がいます。前にもちらりと話しましたが、『367日誕生大事典』に記載されているのはこの清姫さんです。11月8日でしたね。

当然、清姫伝説の清姫さんは誕生日が分かりません。

澄姫
澄姫

残念。

紀州徳川家の清姫、と言うか正確には父親の松平頼純が伊予西條藩なので四国のお方にはなるのですが、この清姫さんは前述した徳川吉宗の従姉妹に当たる人です。つまり父親の頼純さんは暴れん坊将軍の叔父。

なお、後にこの清姫さんは井上正岑まさみねという人の正室になっています。

この清姫さんからいったい何が分かるのか……という話をすると、伝説の方の清姫が地元ではそれなりに親しまれていたのではないか、という推論が立ちます。

知らずにつけた名前が地元で昔々に名を馳せた御姫様だったのじゃ、というのは偶然に過ぎる。一方で徳川家の清姫さんが名前の由来となった可能性も考えられますが、それこそお叱りを受ける案件……。

同時に、1742年が初出とされる清姫の名前ですが、地元では既に有ったのではないか、とも考えられます。

裏付けが無いので全て推測の域を出ませんが、同姓同名の別人からも色々なことが考えられて楽しいですね。

徳川将軍家の「喜代姫」さん

紀州徳川家の清姫さんで色々な推論を立て、裏付けが無いとしましたが実は完全にないとも言い切れない……という話の主役も何と「きよひめ」さん。

先ほどは分家に当たる紀州徳川家のお話でしたが今回は宗家本家本元、徳川将軍家。
徳川十一代将軍徳川家斉の二十五女に『喜代姫』というお方がいます。

二十五女のあたりでいきなり何を言っているのかわかりませんが、家斉は子だくさんで有名な将軍です。

清の文字ではありませんが、民間伝承の類を見ると清姫の名は「喜代」が転じて清姫となったともされており、「喜代姫」と記述される事もあります。『喜代姫縁起絵巻』というものも存在しており、〈清〉ではなく〈喜代〉とされることもあったのだ、とご理解いただければ。

さて、このお姫様が一体何なのさ、という話。紀州徳川家のお姫様は地元であるが故に縁が無きにしも非ず、でしたが天下の御膝下、江戸の姫が清姫に関係があるのか。

実はあるのです。

御開帳、というものを聞いたことがあるでしょうか。御寺とかで本尊を一般的に公開する催しです。大抵は数年から数十年に一度行われ、ニュースにもなる事があります。

さかのぼる事二百年余りの1818年。
江戸にて道成寺の出開帳……つまり出張版御開帳が行われました。

しかも名目は「清姫の角」。

「あの歌舞伎で有名な清姫さんの角が紀州からやってきたよ!」と盛大な呼び込みになるはずが……。お上こと幕府がお怒りに。

その言い分は以下の通り。
今年お生まれになった将軍の娘様と同じ名前のやばい女の話をするんじゃあない

当時の御開帳と言えば若干お祭り騒ぎになるようなこともあったらしく、特に読みだけ考えれば同じキヨヒメ。確かに将軍の娘と同じ名前の紀州のやべー女の話を天下の往来ではされたくないってもの。何せ恋慕した挙句蛇となり果てた殺人犯ですからね

他にも色々あり、結果的にこの時の御開帳は大失敗に終わったようで。

因みに、姫路の銘菓に玉椿というものがあります。これは喜代姫さんが姫路に嫁入りした際に記念で作られたお菓子が発端だとか。
この前食べたけどめちゃめちゃ甘かった。

他方紀州では同じ名前を付けられ、他方江戸では同じ名前で怒られる。清姫の名前がいつ生まれたにしろ、地元とそれ以外ではだいぶ扱いが異なるのも面白いところ。

今回はきよひめの話でした。いつも清姫の話をしていますがちょっと風味を変えてきよひめの話でした。

念のため再三申し上げますが、清姫の名前の初出は文献上1742年です。なので、紀州の清姫さんと関係があるかは実際の所分からずじまい。いつか解き明かしたいですね。これを清姫伝説七不思議の三としておきましょう。……久しぶりだね七不思議。

今回はここ迄。ご覧頂き有難う御座いました。
では次回も……清姫の話をするとしよう。