清姫の話。【名をば】安珍と清姫の名前の話。

布団に包まるきよひー 安珍
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澄姫です。

僕の名前の由来は言葉遊びです。

清ときたら澄。清澄の理。そもそもは清姫に娘が居たらどんな名前になるかな、って妄想からでした。それから数年。珍姫というカウンターが来るとは思わなかった。

名前だけでなく、地名や言葉の由来は調べてみるとなかなかに面白い。前回で触れた切目きりめだと、万葉集では近くの山を『殺目山』としているそうな。随分と殺伐としている。

安珍と清姫の名前を探るあれこれ

さてはて、今回は安珍と清姫、二人の名前の由来を考えてみましょうか。今までも二人の話をした際に名前については触れてきたと思いますが、中心に据えてきちんと考えてみる、ということで。

名前には大抵由来がある。生き物ならば鳴き声であったり、道具ならば形、使い方であったり。人名ならば文字の持つ意味に願いを込めて。明治になると庶民も名字を持ちましたが、住んでいる場所やなりわいをそのままつけているものも多いみたいですね。

安珍と清姫は物語の登場人物ですが、考察の余地はきちんとあります。
主に清姫の。安珍はあんまりない。こともない。かもしれない。

名を清姫

清姫。

日本に姫数多かれど、清の字を与えられしは清姫のみ。
名を体で表す、安珍に対する想いが強すぎたために哀れな末路をたどってしまった悲恋の娘。

と言えば聞こえはいいものの日本最古のヤンデレストーカーといわれのなくはないことを言われている女の子。蛇になって追ってくるとはこれには安珍もびっくり。よく言えば純情。悪く言えば恋愛下手

文献的な方面で見ていくと、清姫の名前の初出は1742年の『道成寺現在蛇鱗』です。江戸時代中期ですから、清姫伝説の中で見ると結構最近ですね。

では清姫の名前を考えていくとして。

和歌山や安珍の地元、白河に残る文献や史跡をたどると元を喜代(喜与)という名であり、そこから清姫に転じた、という話があります。清姫のお家は地元の地主(庄司)という話があるので、その地域では本当にお姫様だったのでしょう。

原典をたどっても、旅行く人を家に泊まらせることが出来、且つ複数人の侍女が居たようなので、一定以上の身分はあったと推察できます。農家のお家ではあまり考えられない振る舞いですからね。

つまり本当に姫だった

ではまた別の視点からもう一つ。

清姫伝説の一部(絵本や道成寺縁起)では清姫の父親(しくは夫?)として、清次という名前が出てきます。近しい人が清の文字を持っていて、その家の少女であったから清姫となった、とも考えられる。

ではそもそも清次という名前は何処からできてたものなのか?

一説に能楽の『道成寺』作者であると考えられている観阿弥の本名が清次なのです。観阿弥の名前から清次という名前がとられたのではないか、というお話が。流れとしては妥当かも。

因みにですが、文献にもブレがあって能楽道成寺の正確な作者は不明です。世阿弥だったり観阿弥だったり。文献に残らない民間伝承の形を追うのには結構限界があるので、もしかしたら古くから清姫と呼ばれ続けていたのかもしれない。

澄姫
澄姫

清姫ミステリー

名を安珍

安珍。

安らげなかった人。

文献によっては安鎮とも書かれていますが、果たして彼は鎮まることが出来たのでしょうか。安鎮というお香が道成寺においてあるので、足を運んだ際には是非。結構いい香りです。

さて安珍。名前の考察があんまりすることのできないひとでもあり。端的に言えば元になりそうなものや伝承があまりってことですね。

文献としては1322年『元亨釈書』に初めて出てきました。この本に出てきているという事は日本の仏教を語る上に置いて必要な存在として見られていたということなのでしょうが、名無しでは少し具合が悪く、名前のあった方が説得力があるからでしょう。

清姫の地元、真砂にある碑石の一つでは安珍の父親の名前が安兵衛であるとされていました。清姫同様、親から一文字貰って名をつける方法ですね。民間伝承の類なので、いろいろあやふやだから分からないねってなってる。

他の考え、あることにはあるのですがほぼ妄想のようなもの。

例えば、清姫最古の原典『法華験記』の作者が鎮源なのでそこからチンがやってきただとか。安はどこから来たんでしょう。清姫伝説を元にした小説だと安珍の師匠に当たる僧侶の名前が玄珍というのもありました。この辺りは考察にもならないので与太話とお思いください。

千年以上も昔に居たかもしれない二人の名前。
思いを馳せてみるのも中々にロマンチック。
同時に果てしない沼。おいでませ清姫。

今回はここ迄。御読み頂きありがとう御座いました。
ではまた次回も……清姫の話をするとしよう。