清姫の話。【妖話】妖怪としての清姫。

前髪の長い清姫 清姫
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澄姫です。

幼い時に祖母に「テレビをつけたまま眠るとテレビの世界に引きずり込まれるよ」と言われて非常に怖かった記憶があります。それをしばらく信じていましたね。その内コロッと忘れていましたけれど。

今だったら悪用するのに。

まあアニメとかの世界に行ったところで主人公の加護も与えられていない一般人は即死するでしょうから、やっぱり眺めているに限る。

妖怪の話

妖怪の話をします。

日本には数多の妖怪が居ます。

お風呂にはあかなめ、玄関にからかさお化け、明かりはちょうちんお化け、あずき洗いが居れば大坊主もこれお化け。いて欲しいと思う座敷童に大御所酒呑童子、九尾の狐、大嶽丸。土蜘蛛猫又天狗河童狐火人魂覚百目鬼鵺姑獲鳥火車叢原火、蜃気楼に返魂香、のっぺらぼうに面霊気ろくろ首。

それらを統べるは妖怪長老ぬらりひょん。さぁさ今宵は百鬼夜行。

日本にはとにかく多く八百万の神がおわしますけれども負けず劣らず百鬼と言わず千を越えるほどの妖怪が居ますね。

ではそもそも妖怪とは何か。

改めて考えると少し考えこまねばなりません。色々な定義や解釈があるみたいなのでこんがらがっちゃいますが、ここでは僕の考えを述べていく感じにします。私見ってやつです。

怪しい物、不可解な物、不気味な物、超自然的な物……妖怪をざっと説明しろと言われるとこんな感じになるでしょう。取り合えず人知を超えた物です。首が伸びたり車輪が燃えたり顔がつるつるだったり。

説明し難いものの集合体でもあるのでしょう。

そんな漠然とした存在の起源を考えるとして、澄姫さんは三つあると考えています。

  • 理解できない現象の解釈としての妖怪
  • 戒めとしての妖怪
  • 物語を下地に置いた妖怪

一つ目は人魂が例ですね。科学的にはガスに引火したものがそう見えただとかあるらしいですが。

二つ目は天狗などでしょうか。幼子に対して一人で山に入ると天狗にさらわれる、などと言って立ち入りを禁ずるものです。

三つ目は番町皿屋敷のお菊とか、あとは鬼の中でも固有名詞となった人(?)たちはそうですね。酒呑童子や茨木童子。

では同じ超常性を持っていながら、神様と妖怪の違いはどこにあるのか。妖怪も神様も同じように不可思議な存在なのに、違うものですよね。

ろくろ首を首の神様とか、ちょうちんお化けを炎の神様とか。稲荷神と九尾の狐には何の違いがあるのか。蛇だって悪い蛇もいっぱい居れば白蛇は良い蛇、似た風貌で水神は崇められるのに邪竜も居る。

ここには《信仰》《恐怖》という概念が伴っているのではないか、と僕は考えています。

同じ超常性を持って、信仰や崇拝の対象となるのが神様。恐怖の対象になるのが妖怪。無論、恐怖が崇拝の対象となることはあります。邪教とか異端信仰とか呼ばれるのはその混濁でしょう。

そして、恐怖に慣れてくるとそれは段々と歓楽の対象となってきます。

要はお化け屋敷や肝試しですね。怪談話が落語や歌舞伎にあるのもその一端でしょう。他にも妖しさや不可思議さ、奇妙さも加わってきそうですが、一先ずはこんな感じで解釈しておきましょう。

妖怪としての清姫の話

さて、清姫は妖怪であるか否か。
妖怪事典の類を見ると大抵居ますね。

上記の項目に照らし合わせてみると、清姫は二つ目と三つ目に適合します。戒めとしての妖怪と物語を下地に置いた妖怪ですね。

即ち『女人に近づくことを戒められ』『その結果を表した物語』とみられます。

同じ人として暮らしていたこともある九尾の狐・玉藻の前ですが、狐全般の神聖さや大陸の狐話、妲己の逸話と合流したことや、殺生石の話も合わさって妖怪感があります。妖艶な美女に化けて人を誑かし、時として国を傾ける。大妖怪の一角なだけはある。

元々は善獣・瑞獣でもあるみたいですが。

さてはて。
昔認識された清姫は妖怪だったかもしれません。
今認識される清姫はそんなに妖怪でしょうか。

妖怪清姫の恐怖

玉藻の前だけでなく鬼軍団の酒呑童子に茨木童子。いったんもめんやぬりかべ。冒頭で列挙した百鬼夜行は妖怪感があります。鬼や天狗は恐怖に対象に成り得たでしょうし、人魂や座敷童は奇妙な出来事への解釈。この奇妙さにはどこか怖れもあったでしょう。

では清姫。めちゃくちゃ怖いですね。蛇体となって追いかけてきて焼き殺してくるんですから。

大妖怪の清姫。

けれども、事件以降付近を通ったお坊さんが焼死体で見つかったり、嘘を戒める事に「嘘を吐くと清姫が出て焼かれるよ」などと取り上げられる話は今のところ聞いたことがありません。

加えて、二代目道成寺の鐘にはこんな逸話があります。

いわく、鐘を作ったら周囲で災厄が相次いだので打ち棄てられてしまった。清姫の怨霊の話がまことしやかに囁かれます。これは継続的な恐怖、妖怪みがある。

ひっくり返して考えると、鐘が無い時に清姫の恨みとかなんかそんな感じのダークパワーは見られない、という事ですね。

すなわち、清姫を妖怪として取り上げるならば道成寺に鐘がある時でないとならない。鐘と清姫はセット。更に考えると、恐怖を与えるトリガーが鐘な以上妖怪清姫の主体は鐘になってしまう。

つまり、清姫の怨霊を呼び出してしまう妖怪が道成寺の鐘。

妖怪は鐘の方だったのだ。
清姫成仏したはずだったんですけどね。

名前を得た清姫の脱妖怪化

ここでも少し関わってくるのが名前の話。

文献を見ると、安珍にも清姫にも名前がありませんでした。安珍は結構早めに名前が出ますが、清姫の名前がきちんと出てくるのは江戸時代になってからやっとです。

便宜上清姫と呼んでいましたが、上記の話には本来清姫の名前が無い。

名前が無いとは何を表すか。それは、誰にでも起こりうる話として認識されるのです。
自分の関わった女がいつ蛇となって追いかけてくるか分からない……。

清姫の恐怖そのものはずっと纏わりつきます。結果怨霊とまで相成った訳で。

やがて時代は進み、清姫も名前を手に入れる。すると物語は誰にでも起こりうる話ではなく、安珍と清姫の話になります。

清姫の恐怖は安珍にのみ差し向けられ、安珍の死をもって清姫の恐怖は完結してしまいます。恐ろしい話ではあるけれど、もう済んだことで再現のされようがない。継続的な恐怖はもうありません。

となると道成寺の鐘は、終わったはずの清姫の恐怖を再現する呪いの鐘になります。妖怪清姫の主体が鐘にある、と何となく僕の主張がお分かりいただけたでしょうか。

荒唐無稽な話ですが、先ほどの鐘が無い時の清姫怨霊譚があまりないことと、鳥山石燕せきえんという絵師の書いた清姫の絵のタイトルが『道成寺鐘』である辺りから浮かんだ説になります。

鳥山石燕の時代は丁度清姫と言う名前が生まれた頃ですので微妙なラインではあるんですけどね。

妖怪ではない清姫の話。

話が長引いたので纏め直しますか。

元々の清姫は妖怪としても存在し得たと思います。お坊さんに対して女という存在を戒める清姫と、道成寺物に見える怨霊としての鐘とセットな清姫

この二種の清姫は妖怪として成立するでしょう。戒めと物語。

元来安珍にも清姫にも名前がありませんから、「誰にでも起こりうる話」として捉えるのならば恐怖は残り続け、清姫は妖怪と成り得ます。しかし、その時に清姫と言う名前はありません。

名称出来たとして道成寺の鐘の女、なのです。

けれども、それぞれ安珍と清姫と言う名を与えられ、固有のキャラクターとなってしまった時、その恐怖は清姫が持ち安珍に与えられるものとなった。切り離され完結した物語として独立してしまい、恐怖は失われていく。

すると残ったのは災厄を振りまくきっかけとなってしまった鐘のみ。実際に振りまいたのが清姫としても、そのきっかけは鐘です。

結果、怨霊清姫を呼び出す恐怖の存在、道成寺の鐘。

物語が変化する中で妖怪とは少し違う存在になってしまったのが清姫だった、と考えられるのです。清姫伝説は話の種類が多いので、一概には言えなかったりするのですが、一先ずこんなところで。

澄姫
澄姫

妖怪始めたり妖怪止めたり、結構忙しい清姫ちゃんなのである。

因みに。

安珍像が安珍の地元白河に寄贈される計画が幾度もあったそうですが、そのたびに地震が起こって計画中止になっていたり、合同で慰霊祭をやったら清姫の地元真砂で清姫堂が燃えたりと清姫の怨霊は未だに囁かれていたり。

生きた妖怪清姫。

あれ?清姫は妖怪ではないという結論だったはずでは。

今回はここ迄。御読み頂きありがとう御座いました。
ではまた次回も……清姫の話をするとしよう。