清姫の話。【清姫研究】少女清姫による認識のねじれ

マッサージ機からずり落ちる清姫清姫
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澄姫です。

日本に姫数多かれど、清の名を与えられしは清姫のみ。
さすればその清姫、清姫足るやその由縁は如何に。

前回、少女清姫ちゃんという存在についてお話ししました。
その最後に、寡婦清姫と少女清姫に関して少々込み入った話があるとして締めくくりましたね。なので今回はその話をしたいと思います。

では……清姫の話をするとしよう。

清姫伝説の認識の話

とは言え、何から話すべきなのか少々迷う……そうですね、先ず清姫伝説の物語としての認識から行きましょうか。ついでに、今回の記事のメインテーマについてももうちょっと分かり易く行きましょう。

度々話してきましたが、『今昔物語集』始めとして清姫伝説の原典は本来〈仏教説話〉としての側面を持っていました。

ですが現在、清姫伝説をに触れて「悲しい恋の話だなぁ」や「女の人を怒らせると怖いなぁ」「嘘はいけないなぁ」と思う事はあっても「仏教って凄いなぁ。有難いなぁ」とはあまり思わないでしょう。

ばぐ
ばぐ

思わん

そもそも、現代で語られる清姫伝説は安珍と清姫が法華経によって供養される場面は省かれることも多く、せいぜいお寺とお坊さんくらいしか仏教の要素はありません。舞台の一つがお寺という認識があっても、仏教としての話である、という印象は中々に薄いのです。

即ち、現在の清姫伝説は少なくとも〈仏教説話〉としては読まれていない、となります。 

ならば現在はどのような物語で読まれているのか、という話に移りましょう。

嘘を吐いた安珍の自業自得にも見えますから因果応報譚であるとも言えますが、おおよそ清姫にスポットライトの当たることが多いので延いては清姫の恋の物語、とも言えます。大蛇になってしまう程好きだったのに、というのは泣けますね。はい。

一概には言えませんが、恋愛譚や単純な因果応報譚など、中心的登場人物足る〈安珍と清姫の物語〉として読まれていると言えば良いでしょうか。今回は統一して恋愛譚としましょう。

清姫伝説そのものの変化

ここで本題です。
何故清姫伝説は仏教説話から恋愛譚へと変化したのか。

物語が長い時間をかけて変遷する事は珍しくありません。シェイクスピアの悲劇も演じられた当初は観客が皆笑っていたと言いますからね。最初は喜劇だったのが悲劇、といった感じです。ただ、シェイクスピアの場合は物語は変わらず、客の感じ方が変わったに過ぎません。

しかしながら清姫伝説は物語そのものまで変質しています。なら、いったい何の要因で清姫伝説は変化したのか……という話ですね。

清姫伝説の文献を辿っていくと、仏教説話の記述は『道成寺縁起』には見えますが『日高川草紙』には見えません。

更に江戸時代、道成寺物が発展していくと安珍と清姫が供養される記述は一気に見なくなっていきます。全くなくなってしまう訳ではありませんが、割合でみると無い方が多くなりますね。

では、仏教説話としての記述が無くなったのは何が要因なのか……『道成寺縁起』と『日高川草紙』を比較して見てみましょう。

この二作品の違いは何処にあるのかを挙げれば見出せそう、という事で違いをば。

幾つか違いはあるのですが、やはり目立つのは清姫の存在が違った形で描かれていることですね。まだ清姫の名前は登場して居ませんが、『道成寺縁起』では寡婦『日高川草紙』では花ひめとされています。寡婦清姫さんと少女清姫ちゃんという差がある、とだけ御理解ください。

清姫の違いが見て取れたという事は、寡婦清姫だと供養が必要で、少女清姫だと供養が必要なくなる、となります。

ではちょっと話の内容とも絡めましょうか。

法華経の有難みを説く、これは「法華経によって安珍のみならず存在そのものが悪とされる女(清姫)まで救った」という点に集約されます。逆に言うと、悪い存在が居ないと効力を発揮しません

寡婦清姫は簡単に言えば「とりあえず悪い存在=女」として登場しているので明らかですが、一方の少女清姫さんは生まれついての悪ではありません

更に道成寺物で清姫の名前が登場した事が拍車を掛けます。名前の登場が意味するのは、清姫が「個人になる」という事です。女、という曖昧な存在ではなくなるのです。安珍の死亡は女という悪だから、という話ではなくなり、清姫個人に帰結する結果となります。

簡単に言えば、「女なら誰でも可能性がある」ではなく、「清姫のやった事」になるんですね。

以上の事を纏めるとどうなるか。

仏教説話によって戒められる悪い存在が居なくなります

結構致命的ですよね、「悪いのに救っちゃう法華経すごーい!」なのにその悪が居ません。不在です。居ない悪い存在を戒める事なんて出来ませんね。屏風の中の虎を縛り上げるようなものです。

となれば仏教説話としての側面は失ってしまいますね。特に、清姫の名前が登場して以降は顕著と考えて良いでしょう。

清姫の変化に伴う清姫伝説の認識変化

なるほど、少女清姫さんの登場と名前が与えられたことによって清姫伝説は恋愛譚になったんだな!となるかといえばそうではなく、今のままでは仏教説話の側面を失ったに過ぎません。

それに、戻るべき原典に戻れば「本来の物語はそうである」と認識されるはずです。

なのに呆気なく失われ、恋愛譚としての話に変質する……これは何かあったに違いない……。

澄姫
澄姫

はい、あります。

清姫の名前が登場したのは芸能分野でした。江戸時代の芸能分野といえば大衆娯楽。そう、多くの人が見るわけです。それまでの清姫伝説なんて今昔物語集に載っていようが所詮一説話、和歌山という地に縛られたままです。

しかし歌舞伎、延いては道成寺物の影響力は凄かった。全国区……とまではいかなくとも、堺や江戸で演じられ知名度が一気に上昇します。そして原典に立ち戻る……のですが、ただ立ち戻りはしません。ここがミソ。傍点付きで聞いてくださいね。代わりに括弧で括りますが。

「道成寺物で見た少女清姫を前提にして原典に戻ってしまう」のです。

悪として存在する寡婦清姫さんがますます追い出されていく……。

本来登場人物って物語の中に存在しますね。小説の中の人物は小説を読まないと知ることは出来ません。ですが、道成寺物によって「先に登場人物を知り」「あとから物語を知る」というねじれ状態が発生するのです。記事タイトル回収。

現代ではよくありますよね。
ゲームで見たことある名前だけどその名前が登場する物語はあまり知らない、なんて。エクスカリバーを知っていて、アーサー王も知っているけど騎士道物語を読んだ事があるかと言われればそうでもない……。

もっと言えば「(清姫伝説の寡婦)清姫って知っている?」「ああ、(道成寺物の少女)清姫だよね」といった感じ。

分かり易く言えば、今日清姫の名前を出すと清姫伝説の話というよりはFGOの話だと受け取られるでしょう。
そう言う事です。

名前だけが物語から飛び出してしまうのは江戸時代から起こっていたとまで言えますね。
大衆娯楽の一つの側面とも言えるでしょう。どの時代も与える影響は大して変わらない物です。

中々に長くなりましたね。少女清姫寡婦清姫の話や細かい所での話の発展は出来るのですが、それはまた別のお話といたしましょう。

今回はここ迄。御読み頂きありがとう御座いました。
ではまた次回も……清姫の話をするとしよう。