清姫の話。【魅力】清姫伝説の魅力を考えてみる話。

見つめる清姫 清姫の話
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澄姫です。

ハロウィンですね。ハロウィンですか。ハロウィンだそうです。
トリックオアトリートをした記憶がない。ジャック・オ・ランタンも飾った記憶がない。

うろ覚えですが本場だと妖怪が跳梁跋扈するからお化けの格好をして人間だとばれないようにするとか聞いたような。それと収穫祭だっけ?そんな感じの何かですね。

とにかくお菓子を寄越せ。お菓子大好き澄姫で御座います。

一つの物語が語り継がれるってどういうことなのか。

ちょっと普段とは違う見出しになりましたね。

清姫伝説が世に現れて千年ほど。同時期の話で言えば『枕草子』『源氏物語』などがあり、それよりも古い物語だと『伊勢物語』『土佐日記』『竹取物語』のほか、『古事記』『日本書紀』といった感じになります。あとは『日本霊異記』とかですかね。これは簡単に言えば説話集だと思っていただければ。

こう見るとめちゃくちゃ豪勢なラインナップに思えますね。

  • 日本はおろか世界を見渡しても最高峰の文学作品ともいえる『源氏物語』
  • 日本の神話・皇室の正統・歴史を語る記紀
  • 現代に読んでもエモいと思える『枕草子』
  • 日本に生まれ育って知らない人はほとんどいないかぐや姫の『竹取物語』

初出の時代的にはこれらの物語に紛れ込むのが我らが清姫伝説なわけです。凄いですね。いやマジで。

これらの物語が語り継がれたのは、ひとえに「他人に語りたいほどのものだったから」になります。語り継がれたのは語り継ぎたかったから、と一瞬わけわからない理論ですが、要は「面白い」とか「教養である」とかそういうことです。

つまり、魅力的であったり、重要であったから。

例えば「『源氏物語』っていう面白い小説あるんだけど読んだ?」「我が国の歴史を綴った『日本書紀』という書物がある」などこんな感じに人から人へ語り継がれていって、結果現代まで残るに至るわけですね。

澄姫
澄姫

つまらなかった小説や映画って他の人に勧めませんよねって。

即ち、他の人に語る、という行為が付随しなければその物語はだんだんと埋もれていき、最終的には忘れ去られてしまうわけです。

じゃあ清姫の話に行くとして。

一番古い『法華験記』では129話、『今昔物語集』だと千にも上るほどの説話があるわけです。そういった側面で言えば、清姫伝説なんて一つの説話に過ぎません。なのに、他の埋もれていった説話とは違い、千年たった今でも清姫伝説はそれなりの知名度を誇っています。

『今昔物語集』は読めば分かると思いますが、知っている物語よりも知らない物語の方が圧倒的多数ですからね。

そんな数多有る説話の中で、清姫伝説が一定以上の知名度と地位を確立した要因を考えてみようかな、というお話でございます。

清姫伝説の魅力ってなんぞや、という話。

清姫伝説には要素が多い

日本最古のヤンデレストーカー放火殺人事件とも冗談交じりに揶揄もされますが、この時点で中々な情報量ですね。実際に日本最古なのかは一先ず、ヤンデレな子が追いかけた挙句殺しちゃったんだなと。
しかも蛇になって。相手はお坊さん。お家に籠ったり川を渡ったりしたら蛇になりました。蛇になったのは寡婦だったり可愛い少女だったりします。全部まとめると十三歳の未亡人とかそんなことになります。

澄姫
澄姫

盛りすぎでは?

実際今僕が挙げたのは清姫伝説を全部ごっちゃにしたものですが、何時の時代も男女のもつれは話のネタになりますし、感情があふれて追いかけるだの蛇になるだの、一度聴いたらうろ覚えでも「そんな話あったなぁ」ってなりますね。要はインパクトが強くて印象に残り易かった、という事です。

覚えてもらうことは何よりの大前提になるわけで。

共通する要素で取り上げれば、舞台は日本屈指の神域熊野、お坊さんと蛇になった女の痴情のもつれ。鐘を巻いて焼き殺す、という舞台も人物も物語展開も三拍子そろったのが清姫伝説。

清姫伝説は映えた。

清姫伝説は映えました。
今だったら走る清姫は写真を取られてSNSで即拡散、「熊野に行こうとしたら大蛇居たんだけどwww」みたいなスレが立ち、哀れ燃える安珍(と鐘)はだれも消防車を呼んでいないのでありました。
集団心理って怖いね。

と、ふざけた文言ですがふざけて居るわけでは御座いません。
清姫伝説は映えるのです。

清姫伝説が後世まで残った理由に、『今昔物語集』ほか多数の説話集の他の説話達とは違いその後も幾つか作品が作られた、という点にあるでしょう。謂わばメディア展開ですね。人気の出た小説がコミカライズされたり映画化されるような感じ。

そしてこれが清姫伝説とは相性がよろしかった。

清姫が安珍を追いかけて蛇になっていく様は文章よりも絵で表現する方が合うでしょうし、大蛇となった清姫が鐘に巻き付いて炎を吐く場面も然り。その場面の再現として舞台に鐘をドーンと置けば観客も度肝を抜かれる事間違いなし。

お分かりと思いますが、『道成寺縁起』や『能楽道成寺』の方面はそういった絵画性の高い清姫伝説との相性の良さも合いまっています。文章で語られるよりも、絵的にバーンと出された方がよりインパクトが強まりますよね。

さてはて、メディア展開の相性の良さもそうですが、舞台がお寺(道成寺)であり、且つ神域熊野の道中にあったというのは大きかった。熊野の道中だったかどうかは正確には微妙なところで、現在は中辺路の途中ですがずっとそうであったかは云々。以下略。

要は定期的に語って聞かせる集団と場所、語られる聴衆が居たであろう、と想定されるわけです。『道成寺縁起』成立以降は更に加速し、文章よりもより強烈な絵を伴った訳ですね。

無論能楽に成ったり絵巻に成ったり、というのは物語そのものの魅力が高かった、というのもありますが、特に清姫伝説の場合は道成寺の存在めちゃくちゃでかいです。継続的に語って聞かせる空間が保証されていたのは、物語にとって途轍もない強みですからね。

清姫伝説は映えました。
熊野付近の小さな一説話からやがて全国に名を知らしめるその過程には、映える伝説、としての側面もあったのでしょうね。

余談・いつの時代も少女とイケメンが好き。

余談余談。

結構な与太話です。
皆さん美少女は好きですか。イケメンは好きですか。好きですね。擬人化は大抵イケメンか美少女と相場が決まっています。歌舞伎も初期は女性歌舞伎でざっくばらんに言えば枕も流行ったので取り締まられました。次に若い男が歌舞伎をやりましたがやっぱり枕も流行ったので取り締まられました。

清姫が寡婦から少女に代わっていったのは、その方が物語として面白いからでしょう。
寡婦と少女、どっちが男を追いかけて行って物語的かといえば、前者は昼ドラ後者は恋愛小説です。好き嫌いは読者によるとしても、かわいい女の子が出てきた方が沸き立つのは世の摂理。

清姫が少女になったのは、物語的に面白い、というのと能楽を演じていた集団に少女が伴われていたからでは、というような部分に落ち着くと思います。外見的な美しさというよりも聖性ですね。

じゃあ安珍だ。

あいつは古い文献からずっと一貫して「めちゃくちゃイケメンやで」と言われています。
言われるのはいいとして、何故イケメンなのか?
清姫が一目ぼれする要因として語られる、というのもありだとは思いますが、それだと「安珍が清姫に惚れられたのは彼がイケメンだからであり、別に女の悪性がどうたらこうたら女に近づくのは良くないかくかくしかじか」の話とは微妙に繋がりません。

フツメンの方が、話を読んだ人も「自分にもありそうだもんな……女怖いわ……」となりますがあそこまでイケメンイケメン謂われると「つーてイケメンは大変っすなぁ」となりかねません。

となると。
安珍のイケメン性は清姫に惚れられる部分以外での要素になります。それは試練を受ける安珍という生成を踏まえているのかもしれませんし、単純にイケメンが主人公な方が読者を引き付けるから、という理由かもしれない。実際よく分かりませんが、やはりそこには「人を引き付ける美」というものが、物語にはあった方が魅力の一因となる、という現代にも通じる理論があったのだろうと思います。

因みに安珍はイケメン(外見的な美)ですが、女性の外面的な美が評価され始めたのは男性と近い相当時代を下ります。だって歌が上手ければヨシ!みたいな時代が平安時代ですからね。男女はすだれを通した恋愛が一般的でしたし、見た目で女性の美醜を判断したのはたぶん中世の末期から近世になってからだろうと思われます。

結構長くなってしまった。安珍はイケメン。原典にもそう書かれている。

今回はここ迄。お読みいただき有難う御座いました。
ではまた次回も……清姫の話をするとしよう。